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ネットを盛り上げた誤報「ナチス強制収容所に難民を収容」

 このところ、難民収容施設のブログを書いてきたので、「ネットでは難民収容がどう扱われているのだろうか」と思い、検索してみた。すると、一昨日の9月14日から、「ナチス強制収容所に難民を収容」という話題がネットで盛り上がっていることを発見した。場所を調べてみると、シュヴェルテである。シュヴェルテはドルトムントの南東に隣接する町で、面積56平方キロ、人口は5万人弱で、このページ上部に置いている地図の右下にしっかり示されている。だから、「このブログにも関係がある」と思い、調べてみた。その結果、「現在盛り上がっている議論は、誤報によると考えられる」、という結論になった。

 ネットの議論を盛り上げたニュースは、「スプートニクニュース」の9月14日付け報道のようだ。シュヴェルテのニュースは、すでに今年の1月中旬に日本語で流されていた。二つのニュースを比較すると、1月のニュースは「これまでにも倉庫や芸術家の工房、幼稚園などさまざまな用途に使われてきた」看守棟に収容すると書かれているが、9月のニュースにはその説明はなく、まるで「ユダヤ人らが収容された建物に難民が暮らしている」ように感じられる。

シュヴェルテの施設跡に設置された記念碑で、枕木が彫刻になっている。(ウィキペディア・コモンズより)
 さて、1月のニュースの基礎となったのは、1月12日の独誌シュピーゲル(Spiegel)電子版らしい。しかし、シュピーゲル誌をはじめとするドイツのマスコミは、1月16日に、当初報道した内容の一部を訂正している。スプートニクの記者は、1月16日の訂正内容はもちろん、ブーヘンヴァルト強制収容所がシュヴェルテから東に300キロ近く離れたヴァイマールの近郊にあることも知らずに記事を書いている可能性が高い(記事に添えられている写真がそれを暗示している)。そこで、私が調べた結果を、簡単に紹介したい。
  1. 8年間近く開設されていたブーヘンヴァルト強制収容所には、25万人近くが収容され、5万人以上が死亡したとされている。収容所は136ヶ所に関連施設を有し、シュヴェルテに置かれていたのはそのひとつで、ドイツ鉄道の修理工場で強制労働させるためである。開設期間は1944年4月から翌年1月までの10ヶ月間で、収容人数は当初は100名、その後700名程度の時期を経て、閉鎖時は201名だったとされている。
  2. 施設設置の報道が注目されたことを受け、シュヴェルテは州の文化財局に調査を依頼し、その結果が1月16日に報道されている。文化財局は、1952年と1959年の航空写真をもとに、「看守棟は一旦取り壊されており、難民が収容される建物は、後にその跡に建設された」ものだと判断している。
 つまり、現在21名の難民が生活している建物は、収容所の跡地に戦後建設されたものである。この話題を調べていて、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録をめぐり、日本と韓国の間で繰り広げられた議論を思い出した。使用している言葉が違う国を理解することには一定の障害があることに加え、戦争に関連がある文化財は誤解を生む可能性が高いのかもしれない。


 スプートニクスニュースが「デイリーメール紙によると」と記していたので、探してみたら見つかった。どちらも誤報だが、デイリーメール紙にあり、スプートニクスニュースにない点として重要なのが、この部分である:"The plan to house asylum seekers at the camp came under fire in January when it was first announced." (強制収容所に難民を受け入れる計画が初めて報道された1月には、集中的な非難を受けた)。スプートニクスニュースがせめてこの部分を紹介していれば、日本のネットでの反応は別の形になっていただろうと感じられる。(2015/09/18、「ナチス 難民 収容」で検索すると出てくる沢山のページを眺め、ため息をつきながら追記)
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| 難民と移民 | 00:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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濡れ手で粟の難民ビジネス - 空き建物は売り手市場

 多数の難民がドイツ各地に押し寄せた結果、市町村は受け入れ施設の設置に四苦八苦している。人口が減少傾向にあるルール地方の都市には、多数の空き家がある。しかし、各種の生活支援が必要な難民施設の場合は、まとめて受け入れることが不可欠で、分散してしまう空き家の活用には適しない。こうして、空き建物の利用が優先され、生徒数の減少で閉校された校舎などが収容施設に転用されてきた。日本では、災害復興時に「仮設住宅」が建設されるが、これに相当するプレハブ収容施設も、各都市に設置されている。ただ、用地を準備して建設するのに、結構時間がかかる。日本の東日本大震災で、学校体育館等の「一次避難所」を閉鎖するのに半年前後を要したことを思い出すと、理解できるだろう。

平米7ユーロで借り手がなかったデュイスブルクの旧製鉄所事務所棟。住居に改造され、市が平米15.25ユーロで借りることになっている。(Google StreetViewより)
 9月に入り、これまでより多数の難民が到着するようになると、これまでのような方法だけでは限界で、とても対処できない。ひとつの方向がテント村の設置だが、これから訪れる厳しい冬に耐える生活を提供できるのか、疑問視されている。こうして、各市町村は、施設に改造できそうな空き建物探しに躍起になっている。この結果、空き建物所有者に有利な「売り手市場」が成立し、市町村が高い家賃を支払わされる事例も登場してきた。

 右上の写真は、デュイスブルクに数十年前に建設された製鉄所事務所である。製鉄所はずっと前に閉鎖され、平米7ユーロで市場に出されていたが、借り手は現れなかった。所有していたのは大規模な住宅会社で、この建物を改造して収容施設に提供するつもりまではない。これに目をつけたある企業が、建物を買い取って難民施設に改造し、市に貸すビジネスに取り組んだ。問題は、市が支払う家賃の高さである。ルール地方では、民間資金による住宅の家賃は、平米7~8ユーロ程度が普通である。ドルトムントで南にフェニックス湖を眺める北岸の新築住宅でも、平米10ユーロ弱で借りることが可能である。ところが、この施設は、改修後に平米15.25ユーロで市が借りる契約になっているそうだ。しかも20年間の長期契約で、消費指数が上昇した場合はスライドする条項までついているそうである。高額物件は、この旧事務所に限らない。プレハブ会社からリースする場合、結果的に平米20ユーロ以上になるケースも出ているそうだ。一般の住宅家賃と比べ高額で、所有者は「濡れ手で粟」である。

 このような状況は、市の住宅・都市政策にも影響を及ぼしつつある。すでにデュイスブルクやミュルハイムでは、「老朽化して借り手がないから」と、取り壊して建て替える予定だった住宅の取り壊しを延期し、収容施設として利用している例が出てきている。気になるのが、デュイスブルクのスクラップ不動産「白い巨人」の今後である。市が獲得したB棟とE棟のうち、閉鎖後10年以上が経過し、ガラスも破れているB棟の取り壊しは、予定どおり来年に実施されそうな気配である。しかし、E棟は閉鎖後4年で、窓ガラスも割れていない。取り壊しを延期し、難民収容施設に転換されるのではないか、私はこう見ている。

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2日間だけで約3千人の難民がドルトムントに到着

 数日前に「ミュンヘンに到着した難民のうち、200人前後が6都市へ」という記事を書いたばかりだが、あれは「8千人であれば、6都市へ配分される難民の数を算出すると、200人前後になる」という計算上の話しを紹介したものであった。そして実際には、9月6日(日)に約2千人、翌日の7日(月)にも約千人の難民がドルトムント中央駅に到着し、待ち構えていた市民から歓迎を受けた。列車が到着するホームでは、ドルトムントのジーラウ市長と、ノルトライン・ヴェストファーレン州で難民問題を担当する内務省のイェーガー大臣も、難民を出迎えた。

ドルトムント中央駅に到着した難民を、両側に並んで歓迎するボランティアのドルトムント市民。(Der Westen紙より)
 なぜ、わずか2日間に「ドルトムントに3千人」もの難民が到着したのか、その理由は2つある。ひとつは、シリアからドイツに到着した難民数が「8千人」ではなく、もっと多かったことである。日本国内の新聞も、9月7日(月)に、「5日以降で2万人以上」がドイツに到着したと報道している。もう一つの原因は、ドイツ鉄道網で重要な拠点であるドルトムントが、ノルトライン・ヴェストファーレン州へ向かう難民受け入れの玄関となったことである。ドルトムント中央駅で、州のイェーガー内務大臣が難民を出迎えたことが、これを示している。

 月曜の夜には、州のクラフト首相もドルトムントの難民一時収容施設を訪問している。この1週間に、ノルトライン・ヴェストファーレン州に1万4千人の難民が到着すると予想されており、難民が乗った列車は、今後はドルトムントと州都デュッセルドルフに1日置きに着くそうだ。もちろん、ドルトムントに到着した難民を、全てドルトムント市の施設に受け入れるわけではない。エッセンやデュイスブルクなどの他都市にも州の一次受け入れ施設があるので、ドルトムントからこれらの施設に配分され、そこで健康チェックを受けて一息ついた後、市町村の二次受け入れ施設へ向かうはずである。

 この人数から、難民の受け入れが大変なことだとわかる。これほど多数の難民が一時に来ると、場所を準備する時間が制約されるので、テント村の出番が多くならざるを得ない。先日、エッセンで、難民ボランティアや周辺住民を対象に、完成が近いテント村の見学会が行われた。たしかに、ある住民が口にしたように、「ブダペスト駅周辺の道路よりは絶対にいい」。しかし、防火規定の影響で、テントには電気コンセントがなく、照明は中央でまとめて消灯するそうだ。「夜中に赤ん坊の世話をする時はどうするのか」という質問に明確な回答がなかったそうだが、急いで懐中電灯を手配しているところかもしれない。

 現在は9月で、これから寒い季節へと向かう。テント村は「一時的な生活の場」と考えられており、可及的速やかに普通の住宅に移ってもらう計画である。しかし、それがいつになるのか、回答できる者はいない。

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ミュンヘンに到着した難民のうち、200人前後が6都市へ

 この数日、シリアの内戦を逃れ、ドイツを目ざす難民の動きが大きく報道されている。そして今日は、ハンガリーで足止めされていた約8千人の難民が、ミュンヘンに到着したそうである。テレビによると、難民は健康チェックの後に施設に収容されたそうだが、その後、州に配分される。州は、さらに市町村に配分するので、最終的にはこの「よもやま通信6都市」にもやって来るはずだ。ざっと計算したところ、6都市に200名程度が来るとわかったので、その計算方法を説明しよう。

 州への配分は、ケーニッヒシュタイン・キーと呼ばれる比率で行われる。この数字が初めて合意されたのは、第二次大戦後、東西ドイツが成立する直前の1949年で、国家的な研究施設の財源を拠出する話しで合意された。フランクフルト近くのケーニッヒシュタインという町で話し合いが行われ、協定が作成されたので、ケーニッヒシュタイン・キーと呼ばれている。内容的には、各州の税収を2/3、人口を1/3に評価した比率で負担するものである。その後も、各種の財政負担でこの数字が用いられており、数字は毎年更新されているそうだ。

 2005年からは、難民の配分にもこの数字が用いられるようになった。ケーニッヒシュタイン・キーで最も負担が大きいのが、人口が最大のノルトライン・ヴェストファーレン州の21.24%で、次はミュンヘンを州都とするバイエルン州の約15%である。報道されている8千人の場合、ノルトライン・ヴェストファーレン州は1,700人弱になるはずだが、ミュンヘンを本拠地とする南ドイツ新聞がノルトライン・ヴェストファーレン州は1,470人と報道しているので、この数字をもとに考えたい。

 次は州内の配分である。ノルトライン・ヴェストファーレン州は、90%を市町村の人口、残る10%を面積の比率で配分している。以前紹介したように、「よもやま通信6都市」は、合計で人口約240万人、面積1,037km2なので、人口は州の約13%、面積は約3%にあたる。だから、6都市合計で13%弱の配分となり、州が1,470人とすると、6都市への最終配分は200人弱の計算になる。なお、実際にはドルトムントとエッセン、デュイスブルクには州の一次受け入れ施設があるので、これをはるかに超える数の難民がやって来るだろう。

 人口は多いが、財政的に厳しいルール地方の立場で考えると、州への配分では財政が重視されているのに、州内の配分で人口が重視されているのは、負担が重い。しかし、この配分方法に対して不満を述べる都市は、見られない。そして、ネオナチ等による反対デモはあるが、一般市民の間では、先日も書いたように、「自分は何ができるのだろうか」という協力的な動きが目立つ。この背景には、「寛容」を大切にする国民性や、戦後に狭くなった国土を東から西に逃げてきた人がかなりいることがあるのではないか、という気がする。

| 難民と移民 | 17:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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オリンピックのエンブレム、ドイツなら残る作品から選定か?

 類似点がある作品の存在をきっかけに、東京オリンピックのエンブレムが白紙撤回となり、こんどはより広く公募するそうだ。104作品の応募があったそうなので、残る103作品から選定する方法もあるだろうが、「全く新しいものの方がいい」と、それは行われない。これは、国立競技場の扱いに似ている。国立競技場では、最後に3つの作品が有力な候補として残り、そこから1つを選ぶのに苦労したそうなので、次点2作品を検討する方法もあったはずだが、それは行われなかった。

2010年7月24日のラブ・パレード犠牲者21名を悼み、トンネル東側に設置された記念碑。(2012年撮影)
 「初めからやり直す」というのは、日本人が好む手法なのだろうか。数年前、これに似た出来事がデュイスブルクであり、そこでは「残る作品から選定する」という方法が採用されている。民間企業が主催したデュイスブルクのラブパレードを、東京オリンピックと比較することはできないだろうが、「ドイツなら、残る103作品から選定する可能性もあるのではないか」という気がする。しかも、作品の類似性が、発表後にインターネットで発見された点は共通している。そこで、デュイスブルクの問題につき、簡単に経過を紹介したい。

 21名の若者が命を失った2010年7月24日の痛ましい事件の後、いくつかのグループが共同で悲しみの行進を呼びかけ、8月1日に実施された。その際に、集められている寄付金で犠牲者を悼む記念碑を設置しようという話しがまとまった。こうして、設置場所未定のまま作品が募集され、集まった39作品から審査委員会が1つを選定し、12月20日に発表された。

 ところが、発表の翌日に、作品の写真が掲載された新聞を見た読者から、インターネット経由で美術作品をオンライン販売するFotolia社が提供している作品に酷似しているという指摘が寄せられた。選定案について確認したところ、作者は確かにFotolia社から修正権つきで購入したことを認めた。ただ、購入したのは白黒のシルエットであり、それをもとに立体的な模型にする過程で自分の作品になっている、という説明だったそうだ。

 この事態を受け、審査委員会が再度開催され、決定を取り消し、残る38作品から選定し直すこととなった。死者の関係者である審査委員からは、「この作品は死者のために作成されたものではない」という意見が出されたそうだ。その後、2月始めに行われた審査委員会で選定された案が作成されて設置され、2011年6月に落成が祝われた。写真のように、鉄の板の背後に角柱のようなものが見えるが、これが死者を象徴しており、21本ある。

 立体的な作品はともかく、エンブレムは平面であり、しかもアルファベットを基礎に考えたりすると、「似た作品」が存在するのは避けられないような気もする。「レディメイドでもいい、その作品を選び、適用することに意味がある」と考える美術家もいるそうだが、「類似性」を厳しく排除し、エンブレム決定前にFotolia社が提供している4300万の作品などとも照合しないといけないとすれば、事務局には気が遠くなるような作業が必要になる・・・。インターネット時代の著作権は、いかにあるべきなのだろうか。

| ドイツと日本と | 15:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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